淨土寺について

当寺の創建は元亀年間(一五七〇~一五七二)に、村民・市兵衛により、
四ツ屋村(四ツ谷)西三屋の相模川寄りに建立されたが、氾濫に流失。

現在地に再建するも宝暦年間に類焼に会い、堂宇・記録等を焼失。
後の明和八年(一七七一)に建立されたのが、現在の本堂。

「市兵衛」は、美濃国(岐阜県)の領主斎藤龍興(斎藤道三の孫)の重臣、川島筑後守総左衛門と名乗る武将で、
その子孫が「中居」(通称ナケエ)の屋号を持ち、現在も健在。

永禄一年(一五六七)斎藤龍興が稲葉山城にて織田信長に敗れ、一族の斎藤但馬が家臣と共に相模の地で世を忍び、
相模川沿いを開拓して今田村を形成するが、氾濫によって流失。一族は分散。

川島筑後、川島図書、川島(某)、佐藤将監の四者が一族と共に現在の八王子街道沿いを開拓し四ツ屋村を形成。
以後の戸数や人口の変化は不明だが、明治九年一月に、戸数四十八戸、人口二百四十八人の記録があり、
「一村一ヶ寺」の運営が昭和の末頃まで継続されていた。

一方、斎藤一族は、磯部・新戸(相模原市)、関口(厚木市)、中新田(海老名市)に移住。

今田村については、徳川幕府作成の『新編相模国風土記稿』「正保改定図」(正保元年)と
以後の「元禄改定図」(元禄十年)に記録されているが、
「天保改定図」(天保十年)には記録されていない。

現時点では今田村の記録はこれ以外は不明。

土寺の沿革

寺号心光山往生院淨土寺
住職二十四世 称譽聡明
所在地神奈川県座間市四ツ谷四八九番地
創建元亀年間(一五七〇〜一五七二)
開山誓蓮社願譽門悦 天正七年(一五七九)九月十日寂
開基村民 市兵衛が四ツ屋村西三屋に建立
大覚院開祖  大覚院 正徳三年(一七一三)五月二十八日寂
    当山派修験吉岡村観光寺配下
    明治二年の革命で廃寺に 墓石は浄土寺に移管
固定資産(大正二年浄土宗務所報告)敷地  三反六畝(九百六十坪)
本堂  五十四坪
墓地  壱百五十三坪
田地  壱町四反二十四歩
畑地  八反六畝十七歩
山林  弐反壱畝廿五歩
雑種地 弐反四畝廿九歩

寺歴

西三屋に建立するが相模川の氾濫にて流失後に現在地に再建立

十月類災にて堂宇焼失

十二月本堂(現本堂)と庫裡再建

十二世乗蓮社根譽的善代

九月関東大震災にて本堂庫裡大破修理

二十一世明蓮社照譽念阿光道幹雄和尚代

二月本堂の屋根亜鉛葺を銅板に葺替

三月現庫裡客殿竣工

二十四世称譽聡明代

当寺の創建は元亀年間(一五七〇~一五七二)に、
村民・市兵衛により、四ツ屋村(四ツ谷)西三屋の
相模川寄りに建立されたが、氾濫に流失。

現在地に再建するも宝暦年間に類焼に会い、
堂宇・記録等を焼失。
後の明和八年(一七七一)に建立されたのが、
現在の本堂。

「市兵衛」は、美濃国(岐阜県)の領主
斎藤龍興(斎藤道三の孫)の重臣、
川島筑後守総左衛門と名乗る武将で、
その子孫が「中居」(通称ナケエ)の屋号を持ち、
現在も健在。

永禄一年(一五六七)斎藤龍興が稲葉山城にて
織田信長に敗れ、一族の斎藤但馬が
家臣と共に相模の地で世を忍び、
相模川沿いを開拓して今田村を形成するが、
氾濫によって流失。一族は分散。

川島筑後、川島図書、川島(某)、
佐藤将監の四者が一族と共に
現在の八王子街道沿いを開拓し四ツ屋村を形成。
以後の戸数や人口の変化は不明だが、
明治九年一月に、戸数四十八戸、
人口二百四十八人の記録があり、
「一村一ヶ寺」の運営が昭和の末頃まで
継続されていた。

一方、斎藤一族は、磯部・新戸(相模原市)、
関口(厚木市)、中新田(海老名市)に移住。

今田村については、
徳川幕府作成の『新編相模国風土記稿』
「正保改定図」(正保元年)と
以後の「元禄改定図」(元禄十年)に
記録されているが、「天保改定図」(天保十年)には
記録されていない。

現時点では今田村の記録はこれ以外は不明。

土寺の沿革

寺号心光山往生院淨土寺
住職二十四世 称譽聡明
所在地神奈川県座間市
四ツ谷四八九番地
創建元亀年間
(一五七〇〜一五七二)
開山誓蓮社願譽門悦
天正七年(一五七九)九月十日寂
開基村民 市兵衛が
四ツ屋村西三屋に建立
大覚院開祖
大覚院 正徳三年(一七一三)五月二十八日寂
当山派修験吉岡村観光寺配下
明治二年の革命で廃寺に 墓石は浄土寺に移管
固定資産
(大正二年
浄土宗
務所報告)
敷地  三反六畝(九百六十坪)
本堂  五十四坪
墓地  壱百五十三坪
田地  壱町四反二十四歩
畑地  八反六畝十七歩
山林  弐反壱畝廿五歩
雑種地 弐反四畝廿九歩

寺歴

西三屋に建立するが相模川の氾濫にて
流失後に現在地に再建立

十月類災にて堂宇焼失

十二月本堂(現本堂)と庫裡再建

十二世乗蓮社根譽的善代

九月関東大震災にて本堂庫裡大破修理

二十一世明蓮社照譽念阿光道幹雄和尚代

十二月本堂(現本堂)と庫裡再建

二月本堂の屋根亜鉛葺を銅板に葺替

三月現庫裡客殿竣工

二十四世称譽聡明代